忠臣蔵のあらましを語ってみた

忠臣蔵を語ってみる 時代劇&歴史ネタ

コロナ前、ご来店された太秦映画村の方とひとしきり、時代劇噺をさせて戴いたことがある。
『忠臣蔵』の銘々伝が映画にならないという話になると、近頃は『忠臣蔵』の本筋を知らない人も多く、銘々伝まで話を拡げると時間的にも内容的にもまとまらなくなるらしい。

てなことで、本日は『忠臣蔵』のあらましを皆さんにお伝えしようと思います。
そんなもん知ってるわーぁって御仁も、よければ、ぜひお読みくだされ。


時は元禄十四年三月十四日。江戸城松の廊下にて、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が突如、高家肝煎・吉良上野介に脇差を以て斬りかかり、額に傷をつけるという事件が起こった。

江戸城内での私闘はご法度。刃傷沙汰は言うに及ばずの上、折も折、朝廷からの勅使饗応当日の指南役と饗応役の諍いだけに、時の将軍・徳川綱吉は激怒。
浅野に即日切腹・お家取り潰しを申しつける。一方、吉良家は被害者としてお構いなし、となる。

一夜にして全てを失った浅野家家臣たちは大混乱。
籠城、仇討、恭順・・・さまざまな意見が出る中、筆頭国家老・大石内蔵助良雄は、長矩の弟・大学お取立てによるお家復興に望みをかけ、一旦、事態を収拾する。

しかし紆余曲折の末、お家最高の芽は無くなり、下級家来の中には、自死したり、生活苦で妻娘を女郎に売り飛ばしたり、同輩の金を持ち逃げしたり、身を持ち崩す者が続出する。

喧嘩両成敗の時代に、理由も聞かず浅野のみを罰した幕府への不満、武士として命を全うしたいプライド、中には仇討で名を上げ仕官したいというものもいたやも知れない。
さまざまな思いを結集して、内蔵助は仇討を決意する。

雪降る元禄十五年十二月十四日。
月こそ違え主君切腹の十四日に、大石内蔵助ら四十七人の赤穂浪士は本所松坂町の吉良邸を強襲。
見事本懐を遂げ、吉良上野介の首級を掲げ、浅野家菩提寺・泉岳寺に凱旋する。

その後、四十七士のうち、吉田忠左衛門配下の寺坂吉右衛門は何処かに蓄電。
(自ら逃げたという説もあるが、浅野の直臣ではないため、四十七士の家族や第二陣への報告のため、等の理由で袂を別ったという説もある)
四十六士は細川家など四家にお預けとなったが、その後、元禄十六年二月四日、幕府の裁定により、皆、切腹した。


『忠臣蔵』が『仮名手本忠臣蔵』などさまざまな形で今に残っているのはいくつか理由がある。

まず謎が多い。
発端である刃傷事件でさえ、理由がわからない。
幕府の裁定も即日切腹は急すぎる。

また討入に参加した四十七士の地位や境遇、年齢がまちまちで、堀部安兵衛のような新参の武官もいれば、大高源吾のような宝井其角と縁があるような俳人もいる、大石主税や矢頭右衛門七のような元服前の若者もいる、
キャラ立ちしていることで銘々伝が生まれやすく、物語の深みを増していった。

さらに当時の将軍・徳川綱吉は決して暗愚ではなかったが、生類憐みの令や老中・柳沢吉保への不満などは少なくなかった。

こういう背景もあり、噂や想像が重なり、物語が膨らんでいったと思われる。

ずいぶん長くなったので、今日はここまで。
もし『忠臣蔵』『赤穂浪士』に興味を持ってくださった方は、時代劇映画や歌舞伎、文楽、講演CDなどをご検討ください。


《参考》
忠臣蔵CD/DVDのご紹介/通信販売