先日、広末涼子きっかけで『鉄道員-ぽっぽや-』をこのブログで紹介させてもらった。
記事を書いているうちに『鉄道員』が見たくなり、勢いで『黄色いハンカチ』 『居酒屋兆治』 『日本侠客伝』などをはしご鑑賞。高倉健つながりで『唐獅子牡丹』が聴きたくなり、久々に聴いたのがこの『男なら』だ。
HPなどで『男なら』は山口県民謡を高倉健がアレンジして歌ったという記事をみたことがあるが、あれは間違いだ。
民謡の『男なら』は幕末の下関戦争の折、外国の襲撃に備え土塁を築く女性たちが歌った曲だ。
一方、高倉健や小林旭が歌った『男なら』は作曲は草笛圭三。歌詞はけっこう時代で変わるが、高倉健バージョンは西岡水朗が作詞している。
もともとは戦時歌謡で、男の生きざまや心意気を「かくありたい」と歌っている。

お気づきの方もいるだろうが、実は「男はこう生きよ。こうあるべきだ。こうありたい」という歌はやたらに多い。
逆に『女々しい』とか『女が腐ったような』など女性っぽいのがダメなような表現も多い。
世のウーマンリブ(って古いなぁ)はこれを女性差別と仰るのだが、じつはこの一連の表現こそ、女性が男性よりも生き抜くことに率直で、前向きな存在であることを示していると私は思っている。
恋人と別れたときの態度からしてそうだ。
ほとんどの女性には一晩大泣きしたり、落ち込んだりしたら、翌日にはカラッと新しい恋を探し始める。
貰ったプレゼントが翌日には質屋に持ち込まれることも少なくないらしい。
男はそうはいかない。
もらった手紙やプレゼントを大事そうに小箱に入れて、押入れの影に仕舞いこんだりする。
数年後に嫁さんに見つかり平謝りという段取りだ。
つまり男の方がもともと女々しいし、過去を引きずる。『男なら』にこんな歌詞がある。
「男なら 男なら 未練残すな 昔の夢に」
別に夢だけに限らない。
あのときああしてたら、こうしてたら、ああしなければ・・・恋にも、仕事にも、人生にも、下手した昼飯のメニューにさえ、後悔するのが男の性だ。
「七つ転んで八つで起きる」
「度胸ひとつで押してゆけ」、
これも一緒だ。七転び八起きというが、男は「もうええわぁ!」と云いがちな生物なのだ。
女性はそうはいかない。
差別とは取らないで戴きたいが、女性は女性故に『子を産み、育てる』能力を持っている。
これを役割や義務とみるか、特権とみるか。
何れにしろ、男には『生む』能力はない。
同じ人間という生物だが、この点だけは勉強しようが、鍛えようが乗り越えられない。
女性は子供を育てるために、何があっても前を向いて生き抜く力を持っている。
彼女が生きなければ子も滅ぶのだから。
一方、男は「あきらめるな」「気持ち一つで乗り越えられる」などと鼓舞しなければ、生きることを諦めてしまう。
すべては逆説の表現だ。
『男なら』は、もともと1937年(昭和12年)に、戦時中の士気高揚を目的に創られました。
その後は一部歌詞を変更し歌われ続けています。戦時歌謡なので非難もあるでしょうが、戦後70年を越えました。
そろそろ『歌』を歴史の頸木から解放させてあげてもいいように思います。
※ちなみに森高千里の『男なら』もけっこう好きです。
(女友達から叱られてるみたい・・・マゾやんけ!)